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写真のあるべき姿──私の想い

「入浴する智子と母」の写真について

From:
アイリーン・スミスコレクションW. ユージンスミスの写真
Aileen M. Smith Collection in the photography collection of The National Museum of Modern Art, Kyoto, W. Eugene Smith photography

Exhibition Catalog, 2008
The National Museum of Modern Art, Kyoto

本文は、2001年7月5日 France Photo Fetesにより開催されたArles/Perpignanの企画の記者会見で発表されたアイリーン M. スミスによる声明を編集・改正したものです。
 

「入浴する智子と母」は、私とユージンが1971から1974年まで、熊本県水俣市に住んでいた時に撮影した写真です。1971年12月、うすら寒い冬の日の午後、あの小さなお風呂場で智子ちゃんとお母様、ユージンと私の4人は、静まり返った固唾を飲むような緊張感の中写真を撮影し、そしてこのステートメントを世の中に送り出しました。この写真は、写真家ユージンが被写体であった母親と子に対し、自分の意思を一方的に主張しただけでは当然生み出されなかった写真です。

写真は、人に見られることによってパワーを持ち、ひとつの完成したイメージとなります。この写真は撮られてから現在に至る数十年の間、受け止めて下さった方々一人一人の力によって、常に繰り返し再生してこられたのです。

ユージンは、「自分は写真家として二つの責任がある」といつも言っていました。一つは被写体に対する責任、もう一つは写真を見る人々に対しての責任です。その二つの責任を果たせば、必然的に編集者・出版界に対する責任が果たされると言っていたのです。ユージンは "integrity" (精錬潔白であること)とそれを守るための頑固さをもっとも大切にしていました。

ユージンが主張するこの信念とその伝統を尊重するために、私は著作権者として、「入浴する智子と母」の写真を今後発行しないと決断したのです。そして、この決断は沢山の検討を重ねた上、慎重に、愛情を込めて行いました。

智子さんのご両親は、長女である智子さんのことを「宝子」と呼んでいました。魚の中に水銀という毒が入っていて、そうとは知らずに食べた人々の体内には水銀がたまっていました。母親にたまった水銀は、胎盤を経て子どもに入っていきます。智子さんが母親から毒を抜いてくれたのです。彼女のおかげで、その後生まれてきた5人の女の子と一人の男の子は、智子ちゃんのように水俣病に冒されませんでした。智子さんは「宝子」です。

写真は病気を治す薬でもなく、神様でもありません。「入浴する智子と母」の写真は世界中に発行・発信されていったにも関わらず、産業排水によりあの日本の海が汚染され、有機水銀に毒された結果起こってしまった智子ちゃんの病気は治せませんでした。

当時、水俣病に対する偏見は依然として強く、その偏見は今も続いています。そしてその偏見は家族にまで向けられました。結婚の話を困難にし、時には縁談の話しまでだめにしてきました。智子さんはそうした世の中が強いる環境の中、1976年、成人式を迎えて間もなく、妹や弟が大人になる少し前にこの世を去りました。

世界中から公害を無くしたいという智子さんのご両親のお気持ちは、何一つ変わっていません。「公害を撲滅したい」と今も仰っています。決して、「入浴する智子と母」の写真が世から完全に消えてしまうことを願っているのではありません。私もそうあって欲しいのです。

しかし智子さんが亡くなったあと、この写真は違う意味を持ち始めました。もう「智子」という一人の生きていく女の子、若い女性の写真ではなく、世界に向けて母と子の愛情を、そして公害の撲滅を表現、発信して行く存在へと変わりました。

正直なところ、私は智子さんが亡くなって以降、この写真の出版依頼に次々と応じるのは年々重荷になっていきました。私は自分に言い聞かせ続けました、「沢山の人がこの写真を見て、感動してきたのだ。ある人にとっては、ここに描かれたイメージによりその人の人生まで変えた写真なのだ。だから、私はこの写真を世の中に発信し続けなければいけないのだ。それが私の責務だ」と。

智子さんが亡くなって四半世紀が経った頃、ご両親が彼女を休ませてあげたいと思っていることがわかってきました。そして、「休ませてあげたい」とご両親は仰いました。私も同感でした。

この写真が智子さんを尊重しないのでは、この写真は無意味になってしまいます。智子さんとご家族の意思に反して発行され続けてしまうのなら、冒涜になってしまうのです。この写真は智子さんの命について語るステートメントであり、だからこそその命を尊重し、またそのことを通して亡き彼女の死を尊重する写真でなければならないのです。

また、著作権保持者として、私は写真を見る側に対する責任も果たさなければなりません。観る側の人々に偽ってはならないのです。この写真はこれ以上発行し続けるべきものではないという事実を隠しながら、いったいどうしてこの写真を出版することができるというのでしょうか。

では、写真界への影響はどうなのか?今後このように写真を出版しないと決めてしまうことは「危険な傾向」を促してしまうのではないか?私はそうではないと思います。なぜなら、この「入浴する智子と母」の写真に対する決定は著作権を放棄する行為ではなく、著作権を行使している行為だからです。

闘わなければいけない闘いがある。しかし、全てのケースはそれぞれ違う。どの闘いを闘うべきなのかを見極めなければならない。私がこの写真に対して取った決断は「写真」を弱めるものではなく、むしろ芸術であり、ジャーナリズムである「写真」というものに力を付けるものだと思います。

写真を撮られる側と見る側全ての人が、世に出る写真はだだ単に大量生産でまぐれに発行されたのではなく、慎重に判断された結果発行されたものだということに確信を持てれば、「写真」のもつパワーはどんどん高まり羽ばたいていくことでしょう。

私には、亡くなった智子さんがこの世界に存在する私たちを通して、「さあ、今度はあなた達の番です。この写真が伝えてきたこと、そしてそれ以上のことをあなた達のアートとジャーナリズムで伝えていってください。」と語りかけているような気がします。

たとえ写真家であれ、写真に関する仕事をしている者であれ、あるいは私のように違う方法でユージンの言いたかったことを引き継ごうと生きている者であれ、自分の目の前にあるテーマに取り組むことは、人間にとって偉大な行為です。

やらなければいけないことは沢山あります。一件「失われた」ように見えるこの「入浴する智子と母」の写真は、私たちの前に待ちかまえる大きな「仕事」に対し、勇気を与えてくれる存在なのです。


清里フォトアートミュージアム友の会・会報11号(2000年11月10日発行)より転載

「入浴する智子と母」に関する写真使用をめぐって……
──アイリーン・美緒子・スミス氏インタビュー──

20世紀の負の遺産ともいうべき水俣の公害を世界に知らしめたユージン・スミス撮影の「入浴する智子と母」。このほどアイリーン・美緒子・スミス氏が、この写真使用の決定権を被写体の家族である上村夫妻に委ねる「承諾書」を送られたとの新聞記事が発表されました。基本理念に基づき、この写真を収蔵する清里フォトアートミュージアムは、歴史に残る作品に対しひとつの結論を出すことで、写真の抱える様々な問題に一石を投じたアイリーン氏から詳細を伺い、今後の美術館の方向性を模索してみたいと考えました。会報11号は、細江英公(館長)、山地裕子(学芸員)、小川直美(広報)によるアイリーン氏へのインタビューを特集します。

アイリーン・美緒子・スミス

1950年生まれ。71年 ユージン・スミスと結婚、71年〜74年水俣に住み、共同で撮影・取材を続ける。75年アメリカで写真集『MINAMATA』(Holt, Rinehart and Winston Inc.)出版、80年日本語版『水俣』(三一書房)出版。二人の「水俣」の作品に関する著作権を保有する。現在反原発NGO「グリーン・アクション」代表。京都市在住。

智子ちゃんが生きていたときと、亡くなった後では、あの写真は別の意味を持つと思う。

細江
このたび、ユージン・スミス(W.Eugene Smith 1918-1978アメリカ)とアイリーンさんの共作「MINAMATA」の一つ「入浴する智子と母」(Tomoko in Her Bath, 1971)が、被写体である上村智子さん(註1)のご家族から「もう智子を休ませてあげたい」、今後印刷物への発表をさし控えてほしいとの意思表示があり、それを了承されたアイリーンさんが作品の使用に対する権利を上村さんに「お返し」した。そのことに関して写真家の立場、あるいは被写体の立場、また我々のように作品を収蔵する美術館の立場から考えると同時に、当事者であるアイリーンさんのご意見をお伺いしたいと思います。
*註1 上村智子さん
1956年生まれ。母親である上村良子さんの胎内に蓄積した有機水銀により生後数日後から痙攣をおこす。病名・原因とも不明のため、治療手段はなかった。1959年、胎児性水俣病と認定。水俣病裁判結審4年後の1977年没。
アイリーン
どうしたら智子さんを大切にできるか、長い間ご家族と話し合って合意した結論が出版を控えるというものでした。当時、水俣で写真を撮っていた塩田武史さんの紹介で上村さんたちと知り合い、何度か通って母子を撮らせてもらうことになりました。1971年12月、大事な写真を撮るのだ。お風呂での撮影をユージンが提案し、お母さんが応じてくれました。私はユージンの横でスレーブライト(註2)を持ってアシストしました。ある意味ではこの写真はお母さん、智子さん、ユージンと私、みんなで撮った写真だという感じがします。
初めてのこどもが生後2週間で痙攣し水俣病になっていたのです。会社は道徳的責任はあるが法的責任はないと、言いのがれをしていました。「私の大切な子供に、こういうことが起こってしまった」とにかくそれを伝えたい。そういう気持ちを込めて撮ったのがこの写真です。
*註2 スレーブライト
カメラ側メインストロボの発光を感知し、同時に発光する補助ストロボ
細江
水俣病の実態を写真を通して訴えたいという、写される側と写す側の立場が一致していたのですね。
アイリーン
一種のポリティカルな訴えでもありました。言葉で表現できないし、していません。あの姿、あの思い、あの母子の関係、命に対してのステイトメント、それを世間に主張しようじゃないかという暗黙の了解がありました。しかし、智子さんは今は亡くなっているのです。
やはり親としてみれば、彼女が生きていたときのあの写真の存在と、亡くなった後では違う意味を持つと思います。
細江
撮影時の智子さんの年齢は? 意識はどの程度しっかりしていましたか?
アイリーン
15才半で、言葉は全然喋れない。私は当時21才、若かったし、あの時わからなくとも今なら気付けるような親子のコミュニケーションがあったと思います。
智子さんはすごくまわりのことが分かっていたと思います。だから、「智子よ、ごめんな。こういうきついことさせて」と、お母さんがとても気にして、「ちょっと無理してるな、許してな、頑張ってや」って・・・。智子さんのお父さんにとって自分の娘を、家族である二人の女性の裸をずっと出し続けるというのは、やはり複雑な気持ちがすると思いますよ。
細江
我々を含め、世の中の人はその辺りを理解しないといけませんね。智子さんに笑うなどの感情表現はありましたか?
アイリーン
「笑顔」で思い出すのは、桑原史成さんの写真。成人したねーって向き合って笑っている父と娘の最高の喜び。あれを見れば、智子さんに意識がないとは絶対に言えない。もう一つ、水俣の裁判で判決が言い渡された時、原告の名前を全部言いますよね。上村智子と呼ばれた時、「ウォー」って、本当に初めて裁判所で声を出したのです。それからずっと、判決が読み上げられる間中声を出していました。だから随分わかっていたと思います。
細江
智子さんが亡くなったのは幾つですか?
アイリーン
21才。成人した翌年です。
小川
親御さんに、「宝子(たからご)」が亡くなったという意識は強かったのですね。
アイリーン
そうですね。地元でも水俣病患者に対する偏見はすごくあったし、親が死んだとき誰がどう面倒を見るのか、とか。ご両親は、「智子はそういう思いやりがあって、成人して間もなく身を引いた」と、言っていました。
細江
上村さんの奥さんとは今回の件について、かなり話しましたか?
アイリーン
数年の間にいろいろなことを考えさせられました。智子さんのポスターが大量にばらまかれる、チラシが落ちれば人が踏む。智子さんは亡くなったのにどんどん世界に出続けている。親としては、早く休ませてあげたい、大分長い間そういう気持ちだったけれど、やはりすぐには言い出せなかったと思うのです。
細江
撮影中から、心の中ではそう思っていたような?
アイリーン
いえ、違います。お父さんの言葉を借りると「公害撲滅」、裁判で頑張ったのも、「同じことが二度と起こらないように」という強い気持ちからで、今でも決して自分達のことだけ考えているわけではないんです。
しかし、今回ご両親の意志を尊重したことについての迷いは何一つなく、私はこの決断が正しいと確信しています。例えば5年後には変えようという気持ちはないですね。

両親の願いを押しのけてこの作品を出し続けることは、作品に対する冒涜であり、否定でもある

小川
ある意味で大変共感しました。親なら、また、アイリーンさんの立場なら、私も同じ決断をするかもしれない。ただ、美術館の人間としては、「水俣」のことをこれから知る未来の人に「入浴する智子と母」を見てほしい。新聞記事などから察すると、アイリーンさんの決断は、今後一切この作品を発表することはない、とも受け取れるのですが。
アイリーン
美術館のオリジナルプリントや、写真集、教科書など既にあるので、このイメージを地上から消す事ではないと私達は考えます。でも、将来この写真が簡単に見られなくなったとしても、それはそれとして受け止めなければと思います。
私が両親の願いを押しのけてこの作品を出し続けることは、作品に対する冒涜であり、否定でもあるんです。あの写真の言う命、愛情を大切にということを裏切ることになります。じゃあ、発表をやめることで小学生がこの写真を知る機会を失うという点はどうするか。私は写真のパワーについて今でも子供達に話しに行くんですよ。この写真自身は完成品じゃないんだと。
この写真がパワーを持つならば、それを見たあなたの心に残ったものがパワーになる、パワーを作るのはあなたで、だから写真を見ることは受け身じゃないんだ。見た人の数だけ、無数のパワーが生まれてくるのです。
沢山ばらまけるのが写真でもない、これを載せるか載せないか、撮られた側の緊張感や主張とか、多くのプロセスを経て一枚の写真を世に出す──写真というものがそうなれば、一層パワフルだと思うのです。
例えば、既に出版されている教科書に掲載されたあの写真を子供が見た時に、もう出版されることはないのだと知ったら、あの写真は違うパワーを持つと思います。わざとそうしているわけではないのですが、ただ、簡単には見られないのだから大事に見ようとか、なんでもう見られないのかな、と考えるきっかけになると思います。
細江
多分、意図に関わらず、その写真は神話化すると思いますね。しかし、教科書には載る可能性がある。日本の場合、普通の出版物と違い、作者の許諾なく使用されますから。
アイリーン
もう一度版権が必要な場合は許可しません。でも、事前に打診があると思いますよ。私のところには、これまでもありましたし。
細江
それが本来のあり方だと思いますが、あなたの国籍が日本ではないことに関係があるかもしれません。教科書の著作権問題は、一度、教科書協会に確認しましょう。

プリントを購入した個人や美術館が展示の権利を持つことは、これからも変わらない。

小川
写真集「MINAMATA」に、1970年のカナダでも、水銀汚染が始まっていたという一文があり、それから30年経っている。
今、身近に同じ事が起きても不思議ではなく、自分も知らずに垂れ流しをしていて、地球はぞっとするような状況になっています。事実を隠蔽したり、他人事にすることが問題をさらに大きくする、何より自分がそれをするかもしれないということが凄く恐ろしいですね。私が問題を考えるきっかけとなったのが、この写真だったのですが、作品として非常に大きな力を持っていると、多くの人が感じているのではないでしょうか。「水俣」のことを何も知らない人でさえ、この写真からは母の子に対する慈愛や勇気を与えられると思います。もう一度伺いますが、やはりこの作品を見ることは、もうできないのでしょうか。
アイリーン
確かに、この一枚の写真で人生が決まったという方にも出会いましたし、そういう話しも沢山聞いています。水俣の撮影から20数年、私はそこでの出逢いを通して学んだことを生かすことが恩返しだと思って、公害や原発の問題に関わってきました。逆に、写真を見る側と上村さんと私とのコミュニケーションにウェイトを置いて、別の活動をすることもできたと思いますが、その選択をしなかったことに対して悔いはありません。みんながこの写真を見られなくなる、私、それが「たいしたことじゃない」とは決して思っていません。まったくその逆だと思います。
この写真を発表し続けることで、私自身ずっと重荷に感じていたことでもあるのですが──、水俣の写真について問い合わせがある時、必ずといっていい程、「あのお風呂の写真がほしい」と言われたのです。公害、水俣のことを多くの人に伝えようとすればするほどあの写真が使われる。
でも、今ではあの写真に依存し過ぎていたと思っています。今回、智子さんに「私はもう休みます」「あとはあなた達が頑張るしかない」そういわれたような感じがします。公害だったら別な方法で訴えなさいと。だから、作品がなくなることは、健康的な面もあるんじゃないだろうかと感じます。例えば、ミケランジェロが心血を注いで天井画や壁画を描いたシスティナ礼拝堂を「いいか、俺はあと一週間でこれをぶっ壊す。俺は俺にできることをやった。この作品を通して思った何かを実現させるんだったら、今度はあなたたちの番だ」それなら、活性化もあり、文化の重荷も依存もない。「壊す」というのは発想であって、自分で表現しろということ。
「水俣」と言われれば、はい、この写真をどうぞと、何かルーティーンになっていた。この写真が使えなくなる、じゃあ、どうしよう、そこに行き着くことも大事なんじゃないでしょうか。そして、やはり人として「この線は越えない」というものを社会の中につくることも大事だと思います。
細江
アイリーンさんから上村さんへの返答までに少し時間がありましたね。やはり、あなたも随分悩んだと思うのですが。
アイリーン
この写真をどう扱うか、一年半位の間に2、3回水俣に行って話をしました。随分前から、私は自動的に「はいどうぞ」と写真を出さなくなっていたのも事実です。
細江
アイリーンさんなら上村さんの気持ちを尊重した上で、これは大丈夫、これは駄目だという判断ができますが、現状では使用の許諾権限を上村さんに委ねていますよね。しかし、例えば海外の方が上村さんのところに直接行ってもコミュニケーションは難しい、その場合はどうするのですか?
アイリーン
私はこの写真を「上村さんにお返しした」と表現しましたが、ご家族は、もう自分達のところに帰ってきたのだから外へは出さない、という思いなのです。各所からの問い合わせに対し、毎回断るのはすごくしんどいことなのです。だから、著作権は私が持っており、放棄していません。そして私の方から作品を世に出すことはしない。もし、著作権のことで上村さんに問い合わせがあっても、「それはアイリーン・スミスに連絡してください」と言えるのです。そして私と上村さんとは、この写真はもう出さないと約束しています。
細江
そういうことですか。多少わかりづらい部分がありましたが誤解が解けました。「お返しする」という言葉は、極めて文学的な表現である。つまり、法律的権利はアイリーンさんにあるが、もはや写真の使用を許諾しないということが上村さんのお気持ちを尊重することに繋がる、したがって、これからは使わせませんよ、ということになるわけですね。
ただ、日本における著作権法の中に、「著作者の許諾に関係なく美術品などの現所有者は展示をすることができる」と、あるのです。実は、当館が開催した桑原史成・「水俣」展のトーク・セッションの折、桑原さんが今回の話を発表してくれた。それを受けて私は「清里フォトアートミュージアムは法律的にはこの写真を発表できる、しかし、道徳的に、真実がわかるまでは、当分の間発表を見合わせる」と言いました。
その反面、法的効力がないということは、世界中で使用される可能性が大きいのです。その場合、どのようにその方々を説得するつもりですか?
アイリーン
上村さんは写真のプロフェッショナルではないので説明しました。つまり、プリントを購入した個人や美術館には展示の権利があり、著作権とは別だということ。また、2、3年後に出版の約束をしている本があること。それを前言撤回するという話ではありません。
今の段階では、購入者全員を克明に調べて手紙を出すことはしていないんです。ただ、問い合わせには、上村さんの思いを大切にしてほしいと答えています。

この問題については、作品に関するガイドラインを書き、パブリックな媒体に公表したい。

細江
あくまで、お願いですね。ところで、この間ワシントンで開催したオラクル(註3)でもこの件が話題になりましたね。
*註3 オラクル(ORACLE)
世界の美術館の写真担当キューレーターが集まる年一度の国際会議。1999年はワシントンで開催された。
山地
誰もこの話を知らなかったので、皆驚いていました。そのうち数名は美術館として「入浴する智子と母」を収蔵していて、発表できなくなるのは非常に残念だ、と。中にはやや感情的に、購入した時と同額を支払ってほしいという意見も出て、すぐに結論が出ないことなのでそれぞれが今後の検討事項として持ち帰った形になっています。
アイリーン
私のところにはまだそのような抗議はきていません。しかし、こちらとしては、購入した美術館に展示をするなというつもりはないです。法的な拘束力もありませんし、それを言うのは、今度は相手に迷惑になります。
小川
つまり、展示の仕方や展示に関わる媒体に、ご家族への配慮と美術館としての確固たる精神があり、それが見る側に正確に伝わるよう努力するなら、作品の展示は可能ということですか?
アイリーン
はい。私も、上村さんもそう思っています。とにかく、上村さんは、二度と出さないというよりも、大事にしてほしいということが一番なんですよ。そして、美術館が購入したオリジナル・プリントというのは、やはりいろいろな意味で違います。
「作品を購入した」という文脈がありますから、他の出版物に対して許可を出さないこととは質的に違うと思います。
小川
そういう土壌ができた上で、見たい人は自分の意志で美術館に足を運び、お金を払って見るわけですから、今までとは受ける印象がちがうでしょうし、作品が言わんとすることの密度が一段高まるように思いますね。
細江
大変重要なお話ですね。単純に今回の一件を聞くと、感情的な部分だけで被写体の権利を一方的に主張しているような誤解を与えかねない。ご家族は、本当に「水俣病」の問題を正確に伝えていこうという意志をお持ちだと、今のあなたのお話でわかりましたよ。
だから、きちんとした形で、大切に扱われる限りにおいて、使われることもやぶさかではないのだと。そこがはっきりすれば、世界中の美術館も安心します。そして、道徳面でも法律面でも著作権者の許諾を得ることが第一義的に大事ですから、その範囲においてはアイリーンさんがコントロールできるわけです。
アイリーン
オラクルの方は、どんな気持ちで弁償してほしいと言ったのでしょうか。法的には彼らに権利があることは理解していますよね。出そうと思えば出せるが、自分が道徳に反する立場に置かれてしまう──という意味でしょうか。
山地
自分の所有物に対する侵害であり、なぜアイリーンさんがそれをしたのかと、展示ができないのであれば、もうお金で──ということでした。
アイリーン
今のようなことは、持ち帰って考え、作品に関するガイドラインを書かなければなりませんね。そして、パブリックな媒体に公表すれば大丈夫でしょう。
細江
そして、その意味で、この会報が一番新しいステイトメントになりますね。この内容を受け、被写体と写真家の関係という普遍的なテーマを研究しようという気運も起こり得る。その時、私はこの場に居た者として、国内外に事実を正確に伝えたいと思います。

これからも、ユージンの培ったものを引き継ぎ、実現し、生き続けたい。

アイリーン
ユージンは、「ライフ」で写真を撮っているときに、自分には責任が二つある、それは、撮られる側に対する責任と、見る側に対する責任だと。「ライフ」の編集は、「ライフ」があるからこの作品が世間に出たと思うでしょう。それも現実で、実際お世話になっている。
でも、ユージンの信念は自分が写した対象と見る対象に注がれている。出版社が主体ではないんだと。彼は、写された側と見る側への責任を果たせば、必然的に出版界に対する責任も果たしていると言ったんですよ。
今回の決断は、一つの前例となるかもしれないし、プラスとマイナスの両面がある。でも、写真に対する議論をして、作品を大切にしながら著作権を行使することの重要さを視野に入れて判断したつもりです。
私は現在写真で生活しているわけではないけれど、出版、コピーライト、アートの世界、キューレーターを意識せずに動いているわけでもないのです。私はユージンから伝えられ培ってきたものを引継ぎ、実現し、生き続けたい。私は、初めはアシスタント、そして夫婦になって、その後一緒にこの作品を作って出した。ユージンは子供のようなところがあったけど、やはり私の師(メンター)なんです。恩師であるユージンと水俣の人達から教わったことはちゃんとやっていきたいし、ユージンに対する私の責任を果たしているつもりなのです。
私は大衆ジャーナリズムも含めて、ジャーナリズムの尊厳や必然、可能性というものを信じています。アートもジャーナリズムも、その世界が良いとか駄目だとかいうものではなく、そこに関わる人がどんなレベルで、どんなことをするかが大事だと思います。今回の決断については、多方面からどんどん意見が欲しいです。
小川
率直な反応を期待されているわけですね。これまで、手元にある情報が少なすぎたために、国内外でいろいろな憶測や疑問などもあったかもしれません。
アイリーン
自分達が納得したからそれでいい、というのは不十分だったと思っています。今回のような問題はケースバイケースですから、一つのケースについての正確な情報を伝える努力をすべきでしょうね。機会を与えてくださったお陰で、自分の考えを整理できたし、みなさんの意見も聞けたし、もっと別の考えがでてきました。
ユージンのしてきたことを止めることなく、もう一歩先に進めたいと思います。
細江
今日のインタビューでは非常に重要な問題が明らかになり、おそらく誤解がなくなると思います。どうもありがとうございました。

2000年5月21日(日) 清里フォトアートミュージアムにて