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溝口チエさん水俣病認定・行政訴訟

溝口チエさん水俣病認定・行政訴訟

1995年8月、熊本県知事はチッソ(株)が垂れ流したメチル水銀の曝露歴は認めながら「公的資料がない」という理由で溝口チエさんの水俣病認定申請を棄却しました。1974年の申請以来、実に21年後の処分でした。チエさんは申請から3年後の1977年に死亡しましたが、この間に県は終えているべき検診を完了させませんでした。申請者が検診未了で死亡した場合には、環境省が金科玉条とする“1977年(S52)判断条件"でも、生前に受診していた医療機関のカルテ収集を明記しています。
しかしチエさんの次男・秋生さんの起こした行政不服審査請求によって、県の病院調査は死亡後17年も経ってからであったことが判明しました。また地元支援者の調査で、少なくとも県が病院調査を始めた当時はまだカルテが残されていた可能性があったことが分かりました。
県がまともに調査をしていればチエさんの水俣病罹患は証明できたのです。
秋生さんもただ21年間じっと待っていたわけではありません。毎年チエさんの命日に合わせて、県に「母の件はどうなっているのか」と問い合わせを続けてきたのです。これに対し県はただ「検討中」と答えるのみで、放置を続けていたのです。

2001年10月に環境省の行政不服審査請求も棄却されたため、秋生さんは同年12月に熊本県を相手取り、棄却処分の取消を求める行政訴訟(棄却取消訴訟)に踏み切りました。が、ここでも県は「遺族もカルテの保存ができた」「旧環境庁の認定審査会に申請を移行することもできた」と遺族にその責任があるかのような反論をしてきました。そして1970〜80年代に認定申請者が急増したことが処分が遅れた原因であると主張して、自らの怠慢と責任を棚上げにする態度に終始しています。
しかし県の提出した証拠から、1988年11月には、未処分死亡者について民間資料を利用すると「認定者がかなり多くなることが考えられる(8割近く)」と自ら分析していたこと。よって病院調査は積極的に実施しないことを旧環境庁と合意していたことが判明してきました。チエさんは意図的に放置されていたのです。

2005年10月には加えて義務付け訴訟を提訴しました。これは認定棄却した処分を取り消すだけではなく、積極的にチエさんを水俣病と認めるよう熊本県に義務付けるものです。
義務付け訴訟では、まず“1977年判断条件"が医学的に誤りであること、その適用が長年にわたって患者救済を妨げる役割を果たしてきたことを明らかにする予定です。そして公健法や救済法が求める水俣病認定の基準とはなにか、その基準によってチエさんは認定されるべきであることを立証していきます。
どうか水俣病未認定問題に関心を寄せ、ご支援ご協力をお願いします。

連絡先:溝口棄却取消訴訟・東京事務局
〒151-0066 渋谷区西原 1-29-4 日本治生会ビル2階 千勝法律事務所 気付
Tel:03-5365-4481 Fax:03-5365-4482
郵振:00130-9-482335 「水俣病行政訴訟事務局」
溝口さん(水俣病認定)棄却取消行政訴訟のホームページ(リンクフリー)