ページの先頭です。
メニューを読む

水俣病問題について

水俣病問題について

水俣病は2006年に、公式発見から50年目を迎えました。初めて保健所に報告された1956年は敗戦から復興を経て経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言した年でした。原因企業チッソは、当時日本の化学工業界を代表する存在で、1960年代の高度経済成長を牽引した会社でもありました。政府がようやくチッソ工場による公害であると認めたのは1968年のことです。それまでチッソは有害な廃液を海に流し続けました。もし、排水規制と漁獲禁止の措置がとられていたならば、水俣病の被害はずっと小規模に抑えることができたはずです。2004年の最高裁判決*は、遅まきながらも、排水規制が行われなかったことを断罪しました。ちなみに1959年末に確認されていた患者数は111人。一方、現在までに水俣病の認定を申請した人は約2万人*に上ります。経済成長を優先するあまり多くの生命・健康が犠牲になったという事実を何よりまず教訓にしなければなりません。

さて、50年を経て未だ解決されていない大きな課題として被害者への補償問題があります。これは、事件の極早い段階で取り組むべきであった疫学調査を怠ったため、補償制度が被害者全体を救済するものとして機能してこなかったということです。一般に中毒では、最初に発見される患者は「氷山の一角」に過ぎません。よって、通常は潜在している患者を探し出す努力が早期になされます。しかし、水俣病事件では企業活動への影響を避けるため逆の努力がなされました。患者自らが闘うことで初めて、その被害の裾野が少しずつ明らかにされてきたのです。50年という歳月は、被害を小さく見積もろうとする力と、切り棄てを拒む力との拮抗の歴史でした。結局、環境省は疫学の視点を全く欠いたまま定めた基準(1977年判断条件)を堅持し、それを満たさない者は水俣病ではないとしてきました。しかし、2004年の最高裁判決*は、その判断基準を退け被害の裾野がより広いということを認めました。今、政府の人権に対する考え方が問われています。

今の社会は、豊かさを追求する中に生きる人と、公害を押しつけられる人とが、互いに見えない関係にあります。この人間関係が変わらなければ、いくら技術が進歩しても悲劇は繰り返されてしまうでしょう。私たち一人ひとりがその暮らし方を考えると同時に、少数者への抑圧を容認してしまわない政府を選択していくことが必要です。