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世界で二番目の水俣病

世界で二番目の水俣病

冥土のみやげ企画・旗野秀人(新潟水俣病安田患者会事務局)

1965年、新潟水俣病は熊本で公式確認された9年後に阿賀野川流域で公表された世界で二番目の水俣病である。二度と繰り返してはならないはずの公害が企業と行政の無責任な行動で再び新潟で引き起こされてしまったのである。しかもこの間、なぜか「熊本は重いが新潟は軽い」などと陰口を叩かれ、常に差別され続けてきた歴史もある。

阿賀野川のほとりで生まれ育った私は当時15歳、30キロも下流の出来事でもあり余り関心が持てないでいた。二十歳を過ぎて家出の真似事をした折に、チッソ東京本社前で座り込んでいた故川本輝夫さん(患者運動のリーダー)と偶然出会い、その後に阿賀野川流域の患者さんを訪ねはじめたのである。71年に新潟水俣病第一次訴訟の判決が出てようやく中流域にあたる私の町(旧安田町)からも認定患者が出た頃の話だ。

間も無く認定を棄却された患者さんの存在を知って行政不服の運動を患者さんと共に手探りで開始、第二次訴訟が始まるまでの10年間続けた。100人余りの棄却患者の中で逆転認定裁決となったのはたったの一件だけという厳しい闘いだったが、第二次訴訟へ引き継ぐ原動力になったと思う。

1995年、新潟水俣病を起こした昭和電工との「解決協定」に続いて96年には高裁でも和解し、大きな節目を迎える。しかし、高齢の患者さんは補償や救済を満足に得ることも無く次々と亡くなっていった。行政不服や第二次訴訟の四半世紀にわたる運動にかかわる中で既成の運動の限界を感じながらも、やがて患者さんそれぞれの人柄や生き様の魅力に気付き、文化運動への転回を模索、「冥土のみやげ企画」を主宰する。残された高齢の患者さんに少しでもあの世へのみやげ話になるような楽しい仕掛けをつくってあげたい、と願ったのである。

映画監督の佐藤真氏との出会いから、92年にはドキュメンタリー映画「阿賀に生きる」を完成、国内外から思わぬ高い評価を得ることが出来た。94年には川本輝夫さんの依頼で阿賀野川の川原石でお地蔵さんを彫って水俣へ送り、その後に水俣川の川原石で彫ったお地蔵さんを阿賀野川のほとりに建立して阿賀と不知火の兄弟お地蔵さんと呼んだ。

水俣病事件は健康被害もさることながら、地域のコミュ二ティーをもズタズタに引き裂いてしまった。昔のようにお互い様の助け合いが戻って暮らしていけることを願い、末代まで語り継げる地域再生のシンボルとしてお地蔵さんは建立されたのだ。

「冥土のみやげ企画」は結構、忙しい。恒例の5月4日開催の追悼集会「阿賀の岸辺にて」の開催、冥土のみやげツアーと称して映画上映や講演などで患者さんを連れまわす全国行脚、次世代の子どもたちへお地蔵さんをテーマに絵本を制作、映画「阿賀に生きる」のその後をビデオで撮って、毎年、新潟市内の映画祭で発表する等などである。

明日はわが身と自覚する高齢の患者さんに「水俣病は辛いけど、ちょっとは面白いこともあったなぁ」と、言ってもらいたくて「冥土のみやげ話」つくりを展開中である。