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水俣病公式確認50年で言いたいこと

水俣病公式確認50年で言いたいこと

原田正純(熊本学園大学)

私は水俣病と関わり始めたのが1960年である。そして、「水俣病は終わっていない、終わっていない」とステレオタイプ(常同的)に言い続けてきた。しかし、何回も終わったものとして幕引きされようとしてきた。原因物質が明らかになって、見舞金契約が結ばれ、言訳程度の住民の頭髪水銀調査とアンケート調査がなされた1960年、胎児性水俣病の発生が確認された1962年、政府が水俣病を公害と正式に認めた1968年、最初の裁判に勝訴して、その後の自主交渉で補償協定が締結した1973年、広大な水俣湾の埋め立てによって水銀ヘドロの封じ込めが終わり、魚の安全宣言がなされた1990年、そして、1996年の和解によるマンモス訴訟の取り下げの時などざっと数えただけでも何回も「終わった」とされた。そして、和解を拒否して唯一裁判を続けてきた水俣病関西訴訟の上告審で2004年10月、最高裁は審査会から棄却された原告を水俣病と認め、国・県の責任を認めた。その後、新しく認定申請するものが急増して、2006年3月末日でその数は3700人を超えた。「判決は判断条件を変えよとは言っていない」と環境省は抗弁しているが、しかし、事実上、認定制度は機能不全に陥っている。そして、皮肉にも50年めになって33年ぶりのチッソ正門前の座り込みがおこり、新しい1000人規模の裁判がおこった。なぜ、50年も経っているのに終わらないのか。それは問題の先送りと実態を知ろうとしない態度からである。大臣も担当官も常に代わる。問題を先送りしておけば担当からはずれる。しかし、患者は一生患者であり続けなくてはならない。その堂々巡りのすれ違いから終わらないのである。

私は天才でも易者でもない、透視力があるわけでもない。ただ現場に行き、当事者からじかに話を聞き、文字どうり肌に触れているから分かるのである。しかし、行政は実態を知ると都合が悪いことを察知して、知ろうとしないし、知っているものを近づけない。最高裁の判決のもう一つに意義は専門家と行政の関係である。行政の意思決定にはさまざまな専門家が動員される。しかし、多くの場合、最初に結論ありきで、それに賛同する専門家だけが集められる。当然、諮問された問題は行政の思惑通り決定される。問題が起こるとあれは専門家が決めたことだからと逃げる。全ての専門家がそうではないし、専門家の意見は聞くべきだが、水俣病の50年を振り返ってみると、このような行政の手法があまりにも露骨に使われてきた。今回の最高裁判決はそのような手法はもう通用しないことを示した点でも評価されるのである。

確認第1号の2歳11ヵ月で発病した実子さんは50歳を超えた。あの時以来、言葉はなく、オムツをしたまま、毎日海を見て空笑いをしている。私たちが行くと飛び上がるように反応するがどう分かっているのだろうか。美人であるから、ひょっとしたら今頃孫ぐらい抱いて海を見ていたかもしれない。60余人の胎児性患者たちも年をとり症状は悪化をたどるのみで、介護の家族も高齢化して将来が心配である。こういう状況の真っ只中にいれば「終わることはない」と思うし、だからこそ、すぐしなければならないことが山ほどあることを知る。