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水俣病関西訴訟最高裁判決の意義

水俣病関西訴訟最高裁判決の意義

2006年4月25日
諏佐 マリ(熊本大学法学部助教授)

2004年10月15日にだされた、いわゆる水俣病関西訴訟の最高裁判決判決は、水俣病(未認定)患者らに対するチッソの責任に加えて、水俣病の発生・拡大を防止するための規制権限を行使しなかった国および熊本県の責任を認めた画期的なものであった。提訴から22年かかったこの判決に至る過程においては、「水俣病」とはどういう病気であるのかについて徹底的に科学論争が行われ、従来示されてきたような曖昧な病像とは異なり、科学的な証拠にもとづいて論理的・合理的な水俣病像が導きだされた。

原告となった水俣病(未認定)患者らは、水俣またはその周辺地域に居住し、その後主として1960年代に関西方面に転居した者である。原告らは、水俣病を引き起こしたメチル水銀をその水俣工場内のアセトアルデヒド製造施設から排出していたチッソへの責任追及に加えて、国および熊本県に対しても適切な権限を行使しなかったことについての責任を追及するために、損害賠償を求めて1982年に大阪地裁に提訴した。この水俣病関西訴訟は、水俣病被害の発生地を離れた場所で初めて提起されたものである。しかも、基本的に原告患者らの主張が認められた高裁判決・最高裁判決をかちとった唯一のものである。これに類似した主張の訴訟は、熊本で1980年に提起されたいわゆる第3次訴訟のほか、それ以外の地域である東京、京都、福岡で提起された。こうした訴えを起こしていた総計2000人を超える原告は、1995年に示されたいわゆる政府解決策にのってその訴えを取り下げた。しかし、関西訴訟の原告らはそれを受け入れず、裁判を続けた。

この原告らは、その第一審である大阪地裁判決(1994年)においてチッソへの損害賠償請求は認められたものの、国・熊本県への請求は認められなかった。そこで、原告弁護団は、大阪高裁における控訴審において、過去の曖昧な水俣病像を主張することをやめ、科学的な説明として最も整合性のある水俣病の捉え方を示すという主張の変更を行った。これを受けて、原告患者らが水俣病に罹患していることをいまもって証明することができ、そうと認めることが相当とされた患者らに対して、チッソに加えて、国や熊本県も責任を負うことが、大阪高裁判決(2001年)において認められ、最終的に最高裁判決でもそれが認められた。なお、1960年1月以降、国はいわゆる水質二法にもとづき、また熊本県は熊本県漁業調製規則にもとづいて、チッソ水俣工場の排水に関して規制を行うことができたのにも関わらず、それをしなかったことが違法であったと認められた。