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水俣病との出会い

2006年11月25日
第24回エントロピー学会シンポジウム
エントロピー論の原点を探る:公害問題と環境問題
慶応義塾大学日吉校舎 記念講演「レジュメ」
アイリーン・美緒子・スミス

水俣病の公式発見から今年でもう50年が経ちます。
けれど水俣病事件が終わったなんてとんでもない。
私たちは今も事件のまっただ中にいます。今こそ「正念場」なのです。

水俣病との出会い

 私が水俣病と出会ったのは1971年の9月のことでした。当時21才でした。その前の年に、元村和彦さんという方がニューヨークに来て、ユージンと私に水俣のことを教えてくださり、それで初めて水俣病事件のことを知りました。その場でユージンと私は「水俣に行こう、写真を撮ろう!」となったのです。

 東京で生まれその後アメリカに渡った私にとって、水俣病多発地区に住んだ3年間は「ふるさと日本の今」を問い求める旅でした。50代のユージンは怪我と病気を抱え痛みをアルコールで癒すといった状態で水俣において最後の仕事をしようとしていました。一方20代前半の私にとってはそれが最初の仕事でした。そんなコンビを水俣病の患者さんと周辺の人たちは優しく受け入れてくださいました。

 水俣の患者さんや支援者との出会いは私の人生を変えました。自分の中には基本的に軽いところがあって、面倒くさがり屋で、何かに立ち向かってちゃんと何かをするということを何処か避けたいと思っています。そんな人間が水俣に出会い、どういうふうに変わっていったか、私の話はそういう話だと思います。

 私たちが水俣の月ノ浦・出月に住んでいた1971年の9月から1974年の10月にかけては、加害企業チッソに対して初めて起こした損害賠償請求の裁判が闘われていて、全国から支援が寄せられた時期でした。患者は必死で闘い、さまざまな方がいろいろな分野からその支援に加わりました。そうして「勝てないはず」の裁判で勝てたのです。それが1973年3月20日、熊本地裁での判決でした。この日は一生忘れません。「道徳的責任はあっても法的責任はない」と訴えていた加害企業を公害患者が敗訴させたのです。

 裁判と同じ時期、いわゆる「新認定患者」の方たちが補償を獲得するために直接交渉を求めて座り込みをしていました。この人たちは棄却処分に対する行政不服の手続きによって認定を勝ち取ったのですが、チッソに「あなたたちは(それまでの患者とは)違う」と言われたのでした。判決後、訴訟派とこの自主交渉派が合同でチッソ東京本社に乗り込み、マラソン交渉を実施し、患者とチッソとの間に補償協定が結ばれました。

 私たちは水俣と東京で患者さんの日常生活と闘いを写真に撮っていきました。私たちが記録しようとしたこの人々の営みは、いろいろな人が一緒になって取り組めば、正義というものが勝利を見ることも出来るのだと、若い私に教えてくれました。この心に灯してくれた火は何があっても消えない素晴らしい宝物です。

 1971年7月には環境庁がスタートしました。ユージンは1972年の1月にチッソの御用組合の暴行により負傷し入院していたので、二人でスリッパのまま病棟から逃げ出し、一回目の環境庁と水俣病患者の交渉の写真を撮りに行ったのを覚えています。

 1974年の夏は、水銀汚染が全国さまざまな所で報道され、他にも水俣病が発生しているのではとパニックになり、これを国が強力につぶした時期です。この頃になって、水俣病の被害が不知火海周辺地域にまで及んでいることが明らかになり、新たに申請する患者が大幅に増えていました。最初の裁判の勝利が事件の終結であったのではなく、まだこれからが新たな闘いの始まりでもあったのです。

 1971年から1975年の間は、各地の公害患者による運動によって、高度成長の負の遺産が厳しく追及され、環境と生活を守る法律が制定された時期です。しかし、一方で日本の公害企業が海外に進出してゆく時代になりました。このことをきちんと追求する大衆的な運動は、残念ながら日本国内では起こりませんでした。もしこの時期を反省するのなら、これが一番大きいことではないかと思います。そして、今の私たちにとってもその重要は失われていません。

 1972年に世界で初めての国連環境会議がストックホルムで開かれた時、胎児性水俣病患者の坂本しのぶさんが会議に出席する決心をし、母親のフジエさんと一緒に水俣駅を出発したのが昨日のことのように思い出せます。あれから35年を迎えますが、世界の環境汚染・温暖化などは驚異的に進行してしまっています。

水俣病のことでぜひ注目して頂きたいこと

 水俣病事件では、50年経った今まで、行政が水銀の暴露を受けた住民の健康調査(疫学調査)を一度も行っていません。このことが、正確な病像の把握を阻害し、御用学者らの権威のみによる認定業務の悪用を許してきました。

 2006年10月15日の最高裁判決で、水俣病の認定制度が誤っていることが明らかになりました。国は今こそその誤りを正すべく、基礎的な事実を検証するための調査を行わなければならないのです。しかし、それには消極的です。最高裁で否定された基準のまま業務を行うことはできないとして委員が辞任した認定審査会は今も空白が続いています。その結果、4300人にも上る不知火海周辺の水俣病申請者をめぐる処遇は宙ぶらりんにされています。このスキャンダラスな事態を、ぜひ国内外に知らせて行くべきことだと思います。

 もう一つショッキングで重要なことは、この50年間、行政は一度もまともに漁獲禁止をしなかったことです。最初の18年間は全くせず、1974年10月から97年8月までは「行った」といったものの、それは水俣湾だけであり、汚染魚を封じ込めるための仕切網は250メートルも空けたままにしていました。魚は自由に行き出来たのです(水中に潜ってこの目で目撃しています)。汚染が広がった不知火海の漁獲禁止は一回もしていません。

 最高裁は1960年1月以降、国は水俣病を防ぐことを怠ったと裁いています。しかし国の責任は、本当は少なくとも1957年にさかのぼるべきなのです。なぜなら、その時点ですでに魚が水俣病の原因であることに異論はなく、食中毒事件として通常考えられる手続きをとっていれば被害の拡大を防げたからです。「全ての魚に毒が入っているかどうか証明できない」として食品衛生法を適用できなかったという理屈は、食中毒であたりまえに行われている販売停止や業務停止などの措置についてその根拠を失わせかねない危ない詭弁なのです。

公害・環境破壊とは何か

 公害・環境破壊は大昔から続いている人間の「不公平」の現代版だと思います。奴隷制度、植民地など世界はさまざまな形で不公平を繰り返してきました。今の社会は不公平が見えない社会になっているという指摘を最近聞きましたが、まったくそうだと思います。チッソという会社は水俣で公害を起こし、そこで人間を殺し、病気にして、営業で設けたお金は首都圏に持って行き、千葉県で五井工場を建てました。まさに不知火海の命で建てた工場ですが、工場を見ても、またその工場が作り出す原料から生み出された商品を見ても、それはなかなか見えません。最近で言うと、WTOとか世界銀行の搾取が同じことを象徴していると思います。

 「コスト・ベネフィットを天秤に掛けて」といわれますが、そのまやかしはコストとベネフィットを受けとる人がそれぞれ違うという所にあると思います。公害反対運動は、ある意味でこの二つを同じ人が背負うようにする運動だともいえると思います。今は、「あなたがこの5年間水俣病だったので、次の5年間は私が水俣病になります」という社会になっていません。そのような社会になれば、公害・環境被害は必然的に減少すると思います。公害との闘いはまさしく人権の闘いなのです。そして、人間と自然との関係性を問うている「旅」だと思います。圧倒的多数のベネフィットのみを受け取る人が実感をもってコスト・ベネフィットを天秤に掛けることができるでしょうか‥。「自分は水俣病問題から逃げられる立場の人だ。けれど患者さんは逃げられない。」このことが「水俣」との出会いに学ぶ一番重たい事実だと思います。

 世の中は全体像を見て初めてその社会が評価出来るわけです。そしてそれで初めて各自が真に救われるのだと思います。つまり、公害のことを考えるのは、「真の幸せは何なのか」を問う道のりなのです。

 ユージンと私が出会った患者さんは何が正しいのか、何が間違っているのかを鋭く見極められる人たちでした。そして、自分にとって一番大切な命はお国など他者には任せられないという精神を持っている人たちでした。彼らからは今もこの大切さを改めて教えてもらっています。そして、それはこれからも続くプロセスだと思っています。

誰から学ぶのか

 1970年前後に「水俣病は終わっていない」と社会に知らせたのは、学歴などの肩書き持った人ではなく、自主交渉のリーダーの川本輝夫さんでした。彼は地元を自転車で走り回り、被害者の生活の場を重ねて体験する中でこの事実を掘り起こしたのです。つまり「科学」は愛なのです。愛なしでは発見はない。これを水俣で教えてもらいました。愛で初めてものごとが見えてくるのです。机の上でデータをいじってだけでは分からない。求めて、求めて、肌で触れた体験でようやく何かが分かってくる。この大切さを「水俣」との出会いで知りました。誰から学ぶのか──それは従来「専門」と思っていいる所に限定されないという大切なことを教えてくれました。

 ついでにぜひ触れたいことなのですが、今年になって初めて川本輝夫さんの妻ミヤ子さんに当時のお話を聞きました。その時つくづく見えたのは、川本さん一人ではきっとこの仕事を出来なかっただろうということでした。おおらかに対応するこの人と結婚していたから出来たのです。だからミヤ子さんは貴重な重要な存在なのです。

水俣病の患者さんと私たちの関係──がんばらなければ何も変わらない

 私が子供の頃、東京で知らず知らずのうちに使ったプラスチック製品、その便利さと安さの代償を水俣病の患者さんたちは今日も体で支払わせられているのです。「とっくに使い終わっている」商品のためにです。だから水俣の患者さんに会う時には、社会が昔使ったこの「便利」な商品のことを思い出したいと思います。そう考えてみると、ちっとも「便利」じゃありません。私たちの今日の日常にも大きく問いかけるものがあります。

 水俣病の患者さんや各地の公害被害者のみなさんががんばったからこそ、環境の法律が1970年代に厳しくなり、そのおかげて日本国内の環境汚染が減ったのです。これは紛れもない事実です。つまり、私たち、私たちの友人、知り合い、今の世代の若い人たちの体の中にある有害物質がある量よりも少なくて済んだのは、公害患者たちが闘ってくれたことによるのです。この事実がリアルに見えるともっといろいろなことを実感できるのではないでしょうか。

 つまり、私たちは世の中おかしいものはおかしいとはっきり言ってきた人たちの総合的な恩恵を受けて生きているのです。そのがんばってきた人たちに敬意を表す意味でも、この恵みを大切にし、楽しみ、今度は自分たちが社会でおかしいと思うもには「おかしい!」とがんばって言ってゆきたいものです。その大切さを私は「水俣」との出会いで学びました。

「水俣」の出会いを生かして

 「被害者の立場から世界を見ると、社会の全体像が見えてくる」と私は思います。私の視野を広げてくれた水俣病患者と支援者に深く感謝いたします。

 世界の各地でよりよい社会を作るために今も多くの人が闘っています。意思表示をするだけで牢屋に放り込まれたり「消されたり」、弾圧を受ける社会に住む人々もいます。それでも、そんな中でがんばっている人がいます。日本に住む私たちはそのことにおいて条件的にまだ恵まれています。その権利を守るためにも、そして、より厳しい条件の下でがんばっている人たちを応援する意味でも、今ここ日本で精一杯がんばるのが大切だと思っています。

 「一応がんばりました。一応意思表示をしました」だけでは、その方たちに失礼だと思っています。やはり実りを生み出すのが大切だと思います。成功しなければならないのです。そうして初めて公害輸出・環境破壊などでこの日本社会が苦しめている世界の人々と環境に対し、ちゃんとした関係が作れるのだと思っています。しかし、結果を出すことのみに目を奪われてはなりません。プロセスの中そのものがこれからの社会のあり方を作って行くのだと思います。つまり楽しく、フェアにやらないと本末転倒になるということだと思います。

 私はこんなことを求めて水俣病のことを国内外に知らせて行きたいですし、日本のプルトニウム政策を止めて行きたいと思っています。

水俣病の今日

 2004年10月15日の最高裁判決は画期的なことでした。関西に移り住んだ水俣病被害者が22年間闘って、国の水俣病に対する法的責任を確定させたのです。長時間を要したことの犠牲は少なくありません。3分の1の原告は訴訟中に亡くなり、判決後間もなく亡くなった原告や関係者もおられます。彼らは、法治国家においては法的責任を確定させることこそが、行政府の横行を正す真っ当なやり方であるという信念のもと、幾多の困難に耐え、この成果を勝ち取ったのです。関係者の思いは「同じ過ちを繰り返して欲しくない」というものです。このことは直ちに、これまでの水俣病をめぐる施策の改善に向かわなければなりませんし、同様の構造で今展開されている社会の中の悪に対しても鋭い牽制を投げかけていると思います。

 今、熊本では新たに認定を求める申請が4000人を超えています。また、これまで理不尽に棄却された人たちの闘いも続いています。一方、日本列島の反対側、青森県の六ヶ所村では再処理工場から放射能の日常的な放出が始まっています。「薄まるから大丈夫」と事業者に都合の良い論理が繰り返されているのです。この行為は今後一体どのような結果を生んでいくのでしょうか。それをとりまく構造・状況をめぐって、私たちは今まさに水俣病の教訓を活かすことができるか否かの岐路に立たされているように思います。

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